人類も犬も猫もみな友だち
カテゴリ
犬の思い出 犬の声 アフリカ Music テレビ雑感 童話?? MY LIFE THAI LIFE 友達 FAMILY CAR GOLF アルチュー人生 お仕事 Vietnam 中学2年E組 LAO 残念 働くジドーシャ 清い心 ミャンマー 以前の記事
2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 最新のトラックバック
タグ
タイ(23)
赤シャツ(13) お仕事(9) 胆石(6) ラオス(5) 残念(4) 網膜剥離手術(4) 健康に感謝(3) ウレピ―(3) ボビー君(2) イサーン(2) 合掌(1) CG(1) NAVI(1) ショッピング(1) 寺(1) 新入生(1) 日記(1) 入院(1) 野球(1) その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
何台も乗り継いだバイクの、最後の1台になったのは、写真のスズキ1100刀だった。このバイクの写真はこれ1枚しかない。 日付は84年5月3日、場所は静岡県フジスピードウェイのグランドスタンド裏の駐車場である。 このときまだ慣らし運転を終えたばかりの新車で、レースを観た足で伊豆半島の先端にある弓ヶ浜まで2泊のツーリングをした。帰りは西伊豆から沼津に出て、更に北上して中央道で東京へ戻った。 ここに写っていないけど、104hito君も一緒で、彼はシルバー色のホンダCB750Fにかなり手を加えてスタイリッシュに仕立てた愛機に乗っていた。彼はゴールデンウィークにも拘らず仕事があったので、スピードウェイで分かれた。 当時は1100cc級のバイクに日本国内モデルがなく、海外輸出仕様を逆輸入して買うしか手段がなかった。 僕の刀はグアム島に出荷されるはずの米国仕様で、速度計のメインがマイル表示、280まで刻まれたキロ表示はサブで文字が非常に小さく、走行中は読みにくかった。 刀の前は赤いCB750Fに乗っていて、それはそれで気に入っていたのだけど、仲間の一人が所有する750ccの刀に箱根で乗せてもらったところ思いの他乗りやすく、買い替えを決心した。 CB750Fは、全体のバランスは良いが、フレーム剛性が不足しており、高速コーナーでヨーイングが起きやすい反面、刀はスイングアームの取付け剛性もしっかりしていた。 程度の良い中古を捜し求めたのだが、当時常連だった杉並区のショップに、木箱で輸出梱包されたままの1100刀の新車が入荷したところに出くわして一目惚れ。予算40万円しかないのに110万円の注文書にサインしてしまった。 ショップは環状8号線沿いにあり、4輪レース界では有名人だった社長が、目の前の高架陸橋を指差し「あっちの信号から全開で来ると陸橋の頂上で200以上出るよ。ナナハンだと180が目一杯なんだよね」と言うのである。ミーハーな僕は、こういう誘惑に非常に弱いのだ。 登録を済ませた1100刀は、美しく磨き上げられてショップで僕を待っていた。嬉しくて叫びたい気持ちと、こんな化け物を買ってしまって大丈夫なの?という不安が入り混じっていた。 バイクに跨り垂直に立て起こし、ハンドルポスト中央のキーを捻ってスターターボタンを押すと、予想と裏腹に 「ドドドド」 と低く太い音をたててエンジンが動いた。4気筒で1100ccもある上に、空冷ということもあって、アイドリングでも1気筒ごとの爆発の鼓動がタンクを通して伝わってくる。 まずはショップ周辺でゆっくり走らせることにした。実際に動かしてみると、750とはまったく別の乗り味で戸惑った。1100は全体に重くて硬く、750にあった軽快感がまるでないのだ。エンジンの回転フィールも硬質で、動弁系やピストンのフリクションが多かったのかも知れない。金があれば一度ばらして、バランス取りとポート研磨をしたかったが、なんせ予算の倍以上の支払いに汲々していたので無理だった。 しかしトルクとパワーは低速から充分で、僕の腕前では実力の数分の一しか引き出せない。排気量は最大の武器であり、都内を流すには3000rpmもあれば4輪車は一瞬にしてミラーから消えるのだ。 ある日、hitoが「しばらく乗って高速慣らししてやるよ」と僕の家に現れた。代わり自分のCB750Fを置いて刀に乗って行った。 再び刀が戻ってきたときの走行距離はちょうど1万キロぐらいで、久しぶりに乗ってみると、エンジンが比較にならないほど軽く回った。メカニカルノイズも静かになり、とてもスムーズになっていた。彼は高価な僕のバイクを丁寧に、そして上手に、調教してくれたのだ。 そのころ僕は、勤めていた自動車ディーラーを辞めて、バカな友人と北アフリカのリビアの仕事に行く準備を始めていた。自動車整備資格を認められ、現地人に難しい整備を教えるという名目だった。海外協力隊などの機関でなく、大手自動車メーカーと契約して派遣される。当時としては破格な給料に目がくらんだのと、東京の限られた狭い担当区域をハムスターのようにせせこましく動き回るのに嫌気が差していた。 バイクショップの社長から、海外に行くならバイクを買い戻すと言われ、買ったときとほとんど変わらぬ値段で引き取ってもらうことになった。どうしても欲しいマニアが見つかったとの事だった。 僕は刀に別れを告げる前の晩、最後の走りに出かけた。環八から第三京浜、横浜新道、西湘バイパスを経由して湯河原からつばき街道を登り、ターンパイクを抜けて東京に戻る、長年通ったお気に入りのルート。 世田谷に戻る第三京浜で自己最高記録に挑んだ。それまでの最高は230km/h。 200を超えると、いつもは直線に感じる第三京浜がコーナーの連続であることがわかる。気持ちをしっかり持たないと、恐怖でアクセルを緩めてしまい、空気と転がり抵抗で一気に160以下まで落ちてしまうのだ。 高速域での空気抵抗は凄まじく、200で片手を上げると手のひらが空気の力でグイっと後ろへ持っていかれるし、上半身を起こしただけで速度計の針は降下を始める。 220。走行車線を走る一般車が一瞬にして後方へ消え去る。こちらの加速は徐々に鈍り始め、230までが長く感じる。 235。速度計の針が、日常とかけ離れた位置で震える。それにしても、刀のメーターは読みづらい。回転計と速度計のゼロ位置が独特で、機能よりデザインが優先された結果だろう。 240。ついに異次元の世界へ突入だ。もうスロットルは戻さないぞと誓い、前傾を更に深める。しかし速度計の針は張り付いたように居座ってしまう。心のどこかに恐怖という二文字が浮かんでは消える。 245。ついに限界だ。本当に怖い。しかしスロットルを戻そうと思っても手が硬直して言うことを聞かない。このとき、急に減速したらエンジンブレーキが急激に掛かってバイクは安定を失うかもしれないと思いつき、少しづつ閉じていった。 200まで落ちると、とてもゆっくり走っているように感じるから不思議だ。周囲を見回す余裕が生まれる。 ミラーに、すぐ背後に迫った4輪のヘッドライトが写った。まさか、覆面? リトラクタブルライトを誇らしげに上げた白のセリカXXだった。 2800cc直6にダブルカムのヘッドを搭載したM型エンジンを積み、当時最高のスペックを誇っていた。 僕は200を維持したまま、左に車線変更してダブルエックスに進路を譲った。 横に並んだダブルエックスは、やや車高を下げ、美しく磨き上げられたBBSらしきホイールのリムが輝いていた。かなり金が掛かったクルマと見た。 助手席に座ったサラリーマン風の男性が、追い抜きざまに手を上げて軽く会釈していた。進路を譲ったことへの礼である。 僕も会釈で返す。 チューンされたダブルエックスは、テールをグッと沈み込ませ、強烈な加速で僕を置き去りにするとき、ハザードランプを数回点滅させて挨拶をくれた。 僕は刀のヘッドライトを2回パッシングさせて、それに答えた。 環八へ出ると、朝を迎える直前の空が白み始めていた。 1987年冬のある日のことだった。
by bob_jones
| 2006-03-15 20:48
| CAR
|
ファン申請 |
||