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今週末に行われる、F1日本グランプリは、30年ぶりに富士へ帰って来る。 僕は運よく、76年、77年の日本グランプリをスタンドで観戦することができ、今でも良き思い出の一つになっている。 特に印象に残っているのは、当時大半のチームが使用していた、フォードV8をベースとしたDFVに対し、12気筒のフェラーリとマトラの排気音が、車郡のなかにあってもはっきり聞き分けられる、強烈な高音のトーンを発していたことだ。 また、ビットリオ・ブランビアや、クレイ・レガツォーニといった荒武者たちは、FISCOのストレートを時速300キロ以上で駆け抜けたあと、何たることか、第1コーナーの手前でフルブレーキしたまま、5速から2速へいきなりシフトダウンするのである。ヒールアンドトウもへったくれもなく、一瞬無音になり、突然「ウワォ~~~ン!」とエンジン音が鳴り響くから、金網にへばりついて見ている僕の、心臓が驚いて止まりそうだった。まさか「ブレーキング中にクラッチを切ってないでしょうね?」と問うてみたかったが、真実は知らない。 僕が初めてFISCOでレースを観戦したのは、1966年に開催された「第3回日本グランプリ」である。当時8歳、今にして思えば、自動車好きな父親のおかげだった。 60年代のレースに関するマニアックなホームページもいくつかあり、何度か稚拙な文章を投稿して、載せていただいたこともある。興味のない人には宇宙語(元祖はこちら)に聞こえると思うので、素通りしてください。 以前にも使った写真ですが、誰だかわかる方、なかなか通ですね。 東京出身のBOB(昭和32年生まれ)と申します。貴殿のHPを拝見し、感激しているオヤジです。 私が初めてレースを観戦したのは66年の第3回日本グランプリです。父親に連れられて、新宿から小田急線を乗り継ぎ、途中からディーゼルの2両編成で御殿場まで行ったのでした。 出来たばかりのFISCOのグランドスタンドからの光景は、今もぼんやりと思い出します。 いくら自動車好きと言っても、当時小学校3年生でしたので、レースに関する事前知識はほとんど無く、自動車マニアだった父親の説明を聞き入っておりました。父親はトヨタファンで、逆に言えばアンチ日産でしたが、プリンスは好きだったようです。とにかく目の前に登場した真っ白のポルシェカレラ6には大変に感動した様子でした。 しかし、滝進太郎選手のカレラ6は健闘むなしく敗れました。そして一方の私は、レース観戦初体験で「この世にこんなすごいモノがあるのか」と感動しました。 その直後に、当時では350円と高価だったCar Graphicを初めて買ってもらいました。表紙は優勝した栄光の赤いR380です。 翌年も父親にねだって第4回日本グランプリを観戦、グリッドにはたった9台のマシーンしかなく、寂しい思いをしました。しかし3台のカレラ6がボンネットフードの色を変えて登場したとき、私はとても嬉しく思いました。「今年こそカレラが優勝して欲しい」と願い、若き生沢徹選手が優勝しました。 しかしゼッケン7番の酒井正選手は、須走り落としと呼ばれた30度バンクを飛び出し大破、父と私は現場近くまで見に行き、マーシャルの人に酒井選手が無事と聞いてほっとしたものでした。 自他共に認める自動車少年となっていった私にとって、一番インパクトが強く記憶に残っているのは、その翌年の68年に行われた第5回日本グランプリであります。 当時は今よりもグランプリに対する国民の関心が強かったのか、AUTO・SPORTS誌などはレース前からグランプリ特集の増刊号まで出し、競馬顔負けのレース展開予想や出場マシーンについての情報などを、実に詳細に渡り掲載していました。 第一コーナーの30度バンクに進入する際の順番まで図解入りで予想していたのですから、素晴らしいとしか言いようがありません。私にとっては学校の教科書より貴重な内容でした。 更には、着々と力をつけたタキレーシングが輸入したローラT70MKIII は、テスト走行にてバンクでフロントが沈んで車体が路面を擦ってしまうなどというマニアックな話ができる同級生などは、当然おりませんでした。 私にとって、第5回グランプリでの大きな関心事と言えば、 1.ついにあこがれのトヨタ7が見れること。 2.トヨタ7のノーズが初期型より精悍で強そうなこと。 3.貿易商をやっていた父親の影響でファンになった、福沢幸雄のマシンがゼッケン2番で深緑ボディ、上部に突き出した排気管が白、しかも福沢選手のヘルメットが赤で最高にかっこ良かったこと。 4.日産が自社エンジンでなくシボレーのエンジンを積むと発表したとき父親が「卑怯だな」と言ったこと。(いまにして思うと日産の関係者も悔しかっただろう。) 5.だけどあの可変ウイングは凄いと思いながら、父親には言えなかったこと。 6.私のヒーローである生沢選手が小さな2リッターエンジンのカレラ10で出るのを父親と一緒に心配したこと。 当時の5年生としてはなかなかのものではないでしょうか。 この年は父が買ったトヨタ1600GT(RT55)でFISCOへ行ったのも思い出です。 レース当日、目の前のピットロードに、福沢幸雄選手のトヨタ7が停車しているのが見えたときの興奮は忘れません。車体は緑というより黒に近い色合いでした。 そして長丁場のレースが始まり、私はグランドスタンドの一番下までおりて金網に顔をつけて展開に見入ったのでした。 レースの展開は貴殿のHPに詳しく紹介されておりですので、私の思い出を申し上げますと、圧巻はなんと言っても終盤になって、北野選手の黄色いウイングのR381と、生沢選手のカレラ10の一騎打ちとなったときのことです。 確かに場内放送で「生沢がトップに立ちました!」と放送(間違いだった)され、午後も遅くなったグランドスタンドでは観客が総立ちとなり、私も一緒になって興奮したのでした。 当時「怪鳥」と呼ばれたR381と、カレラ10の最大の違いは、その排気量とエンジン構造に起因する排気音でした。 R381にはシボレーの5.5リッター、V8でOHVという当時典型的なアメリカンを積み、一方のカレラ10は空冷水対6気筒の2リッターと、半分にも満たないエンジンでした。 R381は大排気量にもの言わせ、トルクフルな太く低い音を響かせ、カレラ10はR381より遥かに高い回転数から甲高い金属音を発生させていました。重爆撃機と軽量な戦闘機の闘いと言えそうです。 競技車両のカテゴライズやクラス分けの細分化が進んだ現代では考えられないことですが、当時はこのような車両同士が混走し、しかもハンディキャップなしで対等に戦っていたのですから、本当に面白かったし夢とロマンがありました。 クルマとクルマ、ドライバーとドライバーの命をかけた意地のぶつかり合いという表現がぴったりです。 目の前の直線を駆け抜ける速度は、排気量に物言わせるR381の方が速く見えましたが、ピットの向こう側に見える100Rからヘアピンの通過速度はカレラ10が勝っているようでした。 私の父親はひとこと「ポルシェの技術はすごいな。あんな小さなエンジンなのに。軽いボディとサスペンションが全然違うんだよ。」と説明してくれました。これだけでも、少年がポルシェを好きになるに十分ではないでしょうか。 翌年の69年日本グランプリや68、69年の日本CAN-AMも、もちろん見に行きました。 68年のCAN-AMでは初めてレース後のパドックへ入り、父親の仕事の関係で、スエーデン人の元F1ドライバーであるヨアキム・ボニエ選手のピットにも入れてもらいました。レースで酷使されボロボロになった太いレーシングタイヤが何本も転がっていました。 ボニエ選手はひげ面の優しい人で、プログラムにサインをもらいましたが数年後にルマンで事故死してしまいショックでした。 また、タキレーシングを創立された滝進太郎さんは、私の住まいの近くに引越して来られ、サインをもらいに行ったことも思い出されます。確かシルバー色の911に乗っておられました。 その他にも、スロットレーシングも含めて、たくさんの思い出がありますが、遠い記憶となっていて、貴殿の力作を拝見するたびに「当時の自分」が思い出される次第です。 時代の背景や文化を知る上でも、貴殿の記録は大変に貴重なものです。これからも心より応援申し上げます。
by bob_jones
| 2007-09-27 19:16
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